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16. 名家老、服部長門守康成の謎

 津軽偏覧日記にある「津軽の大灯籠」の記述には、いくつかの謎があります。その一つは、ねぷたのアイデアを出したという服部長門守が、為信に召抱えられた時期です。「津軽一統誌」によると、ねぷたを披露した文禄2年(1593)には、未だ、家来になっていないのです。そんな不正確な記録に内容全体が信じるに値しないとされているのです。
 服部長門守は、恒武平氏の服部主計頭正央から十代目にあたる服部正成の長男として生まれたといいます。初め織田信秀に属していたが浪人し、関ヶ原に向かう津軽為信と会い、3百石で召抱えられ、戦場に同行。大垣城を攻めた時、忍術をもって城内に忍び入り混乱させ、落城のきっかけをつくる手柄をたてました。この時、徳川家康に拝謁し御誉めの言葉を賜ったといいます。この功により一千石に加増されます。
 その後の話も少し加えましょう。津軽為信が死んで、相続騒動が起きます。為信公の遺言ありとして三男信枚を立てる服部長門守に対し、長男信建の子、熊千代にすべきとする一派が対抗するのです。
 服部長門守は、幕府から、信枚の後見人を命ぜられ、幕府から一千石、津軽藩からも一千石加増、合わせて三千石の筆頭家老になります。当然、幕府の後ろ盾を得た信枚が跡目を継ぎます。この二代藩主津軽信枚が寛永8年(1631)2月4日死去、三代藩主信義になって、「舟橋騒動」が起きます。新参の家臣、舟橋半左衛門長真・乾四郎兵衛安儔(やすとも)と古参の家臣、兼平伊豆信孝・乳井美作建定(のりさだ)が藩を二分する抗争をします。未解決のまま、長門守が、寛永12年7月に病死。寛永13年1月、幕府の裁定は、喧嘩両成敗。舟橋と乾は、伊予松山藩へ、兼平と乳井は長州藩へ御預かりとなります。御預かりとは流罪です。この裁定に不満をもった有力家臣17名が退転、その中に長門守の長男服部左近成昌もいました。後に加賀藩前田家に仕官したといいます。服部家は没落。次男孫助安昌によって再興なりますが、もはや家老職家ではなくなります。
 余談になりますが、津軽藩領のうち、飛び地、上野国大館(おおたち)の2千石は関ヶ原の功によるとされていますが、後年、幕府から、経緯や時期を下問され、津軽藩でも不明と返事しています。朱印状が無くても確かに津軽領になっているのですから、「鶴の一声」で済む家康の仕業とみてよいでしょう。また、家康は、自ら加増してやり、豊臣家の家老に指名した片桐且元の例もあります。そして、元禄2年(1689)、1000石を分知した黒石藩信純家が絶えて、内分分家にもかかわらず、その1000石を幕府に没収されています。
 この服部長門守が津軽家に召抱えられのが、本当に、関ヶ原のときなのでしょうか。そうであれば、「津軽の大灯籠」の記述は、信憑性がなくなります。長門守は、この時代の津軽では服部長門守しかいなのですから。ここで、関ヶ原の戦い、その中の「大垣城の戦い」の通史というべきものをみてみましょう。
 石田三成率いる西軍は、始め、東西の要所、大垣城に集結しました。しかし、徳川家康は間諜を用いて佐和山、大坂への進撃を漏らして、諸将を率い、関ヶ原に向かいます。この行く手を阻もうと、西軍の主力も関ヶ原に移動するのです。
 残って大垣城を守るのは、一の丸に福原長尭(ながたか、直高)、熊谷直盛、二の丸に、垣見家純、木村勝正、その嫡子豊統(とよむね、伝蔵)、相良頼房、三の丸に秋月種長、高橋元種です。対して、東軍は、水野勝成を主将として、西尾光教、松平康長らが率いられ、津軽為信以下の津軽兵も、これに従っています。大垣城を攻めあぐねていた東軍に、9月15日、関ヶ原での大勝利の報告が入ります。水野ら東軍は、開城は時間の問題と、一旦、曽根(大垣城より北へ4km)へ引き上げます。翌16日、その水野勝成へ、相良頼房、秋月種長、高橋元種の連署による書状が届きます。内容は、帰順を申し入れるもので、その条件として、大垣城の守将数名を謀殺して検分に入れるというものでした。熊谷直盛、垣見一直、木村勝正、木村豊統が討たれ、二の丸、三の丸の兵達は、帰順を許されるのです。
 なお、本丸には、石田三成の娘婿とも妹婿ともいう、福原長尭が守っており、これからが、大垣城攻めの本番でした。多くの戦死者を出し、津軽兵も含まれていたようです。
 戦いが続く、9月23日、家康から勝成へ命令が下されます。城内士卒の助命を許す由、説得し開城させよというものです。これにより、福原は伊勢の朝熊(あさま)に幽閉され、勝成の助命嘆願の甲斐もなく、10月2日、自決するのです。
 これが、おおまかな大垣城の戦いの結末ですが、「津軽一統誌」では、服部長門守は、数日前に忍び入り、諸将を東軍に翻意するよう説得したとあります。服部長門守は、為信、信枚、信義の三代に仕え、津軽藩初期の数々の御家騒動を収束させた名家老ですから、その説得術があったとしても不思議はありません。また、服部という名前にあるように忍び入る術を心得ていたとしてもいいでしょう。しかし、優れた忍術使いでも、できないことがありました。
 多くの戦も、そうですが、戦が始まる前に、軍(いくさ)奉行が名簿を作り、点呼をするのです。それは、後に報奨を与える資料にもなります。それに服部長門守は入れなかったのです。そこで、点呼の後に召抱えられたことにしたのです。津軽家は、この関ヶ原で、為信と信枚が東軍に、信建は西軍に分けて、どちらが勝っても家が存続できるようにしたことが知られています。そこから、服部長門守は、もともと、大垣城の中にいたのであろうと考えられるのです。関ヶ原で家を二つに割って参戦したのは、津軽家ばかりではありませんでした。関ヶ原で東軍が勝つと、何故か、点呼した数より多くになっていた隊があったのです。家康は、それを聞いて笑って許したといいます。幕府から、御咎めがあるかもしれない御家の事情は情報統制されたのでしょうが、それには、漏れがありました。
 それは、服部長門守康成は、関ヶ原の戦いの前の文禄の役の頃に、既に、津軽為信の家臣、それも重鎮だったことが、「津軽藩旧記伝類 巻之三」津島筑後政秀の項によって、解るのです。津島筑後政秀の嫡子彌右衛門政利が肥前名護屋へ使者として、服部長門守と同行しているのです。
  文禄元年、服部長門守康成、肥前名護屋へ御使被仰付候節、右副使被仰付、首尾
  能勤申候。其後子孫世々伝ふ。           津軽記
 文禄元年に、津軽為信の居る肥前名護屋へ使者として行ったのであれば、「津軽の大灯籠」の話は、肥前名護屋に居た為信の命で、近衛信尹の居た京で、家紋受領の証とお礼を表明するために、「ねぷた」に牡丹花を付けて披露したということに繋がります。(2010/05/15)