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19. 津軽の大燈籠」の謎解き

 「津軽偏覧日記」の拾い読みをした別稿で、文禄2年の項に、飛ばして置いたのが、「津軽の大灯駕籠」の記述です。「ねぷた」の由来の論争には、必ず、引用されてきた文です。ここに、見てみましょう。

  今年京都御滞留の内、・・・・<略>・・・・・・此節
  田舎物数奇を灯篭に致し、都鄙の人に見物さす
  へしとて諸人江御尋故、品々の注文出候処、長門守
  注文に常の灯篭二間四方と申を御覧、田舎
  武士の珍敷注文ハ不面白とて是を用へ給ふ、
  御代々御用被成候故、津軽の大灯篭とて遠
  国まて相知候処、享保年中三上仁左衛門勘定奉行
  の節費成とて相止候、右存寄棟方作右衛門
  御家老之節同心にて相止候と也、一説ニ此事  (この文は小さく2行)
                 文禄元年共云

 この文章には、奇妙な事があります。「津軽の大灯篭」を披露したのが二人、経済的な理由で止めたのが二人いることです。津軽為信が披露したというのであれば、家来である服部長門守の記述は不要です。家老の棟方作右衛門が止めたというのであれば、三上奉行の意見などの途中経過は不要です。奇妙の理由は、二つ以上の話が混入しているのです。
 文禄2年は、「文禄の役」という朝鮮、明に向かっての戦で、全国の諸将が渡海、あるいは、肥前名護屋に在陣していました。津軽為信も、その例外でなく、多くの家来とともに在陣していたのです。当主が「文禄の役」で、国元に居ないことで、津軽家では、留守役であった浅瀬石城主千徳大和守父子の増長を招き、文禄5年2月、これを誅罰するこになりました。このようなことは、薩摩の島津家でも起きています。慶長4年3月、島津義弘の嫡男、忠恒(のち家久)によって、家臣伊集院幸侃(こうかん)が成敗され、その子伊集院忠真が都城で叛乱を起こしています。この図式が天下人のスケールで起きたのが、秀吉による秀次の粛清でした。
 「文禄の役」が休戦に向かったことと「お拾い様」が生まれたことで、秀吉が肥前名護屋を後にしたのが、文禄2年8月。家康以下の諸将が、京や伏見に、あるいは国元に戻ったのは、その後ですから、盆灯篭と思われる「津軽大灯篭」は7月で、その時、津軽為信は京に居なかったのです。国元は言うに及ばず、京に居た家来も少なかったのですから、殿様に代わって、服部長門守が「津軽の大灯篭」を披露することは、文禄2年なら、有り得ること、また、千徳大和守父子を誅罰するために、兵は一兵たりといえども欲しかったとき、京に居た侍は少なかった筈で、この時なら、家老に代わって、勘定奉行の三上仁左衛門が止めることを決定することは、有り得るのです。遠国とは、津軽国元のこと。享保年中に止めたのは、殿様の高覧で、五代藩主津軽信寿が享保5年(1720)を始めとし、度々、「ねぷた」を御覧、享保12年、藩財政逼迫につき、高覧を中止しています。しかし、棟方作右衛門は、享保7年に表書院番頭、御用人兼帯を仰せつかっていて、家老になるのは、享保20年のこと。これを家老と「よいっしょ」するには理由がありました。棟方作右衛門は塚原卜伝流の嫡流、中村次太夫を食客とし、支配下の小山次郎太夫貞英に奥秘皆伝しています。この「津軽偏覧日記」の書かれた時代に、小山次郎太夫の舎弟、小山太郎兵衛英長が塚原卜伝流の奥義を究めた剣の達人として脚光を浴びているのです。当然、棟方家は羽振りが良かった訳で、「存じ寄りの」という修飾語が付くのです。没落し家老職家ではなくなった服部家とは、扱いに差があります。また、他にも、文章の端々から解ることがあります。「田舎物数寄を灯篭に致し都鄙の人に見物さすべし」という文章は、この「津軽の大灯篭」が「ねぷた」の起源ではないことを表しています。「数寄」とは「すき」と読み、この時代には、多くは「茶の湯」を指し、高尚なものという意味の言葉です。この頃、津軽には、既に、風流の影響を受けた「ねぷた」があって、いまさら、京の灯篭の真似をしようとしていないのです。卑下の感じが全く無い、この上から目線は「ねぷた」を知っている津軽為信が、服部長門守に出した命令の一節ではなかったかと思われます。そして「田舎武士の珍しき注文」とは何でしょう。これは元々の「ねぷた」にはあった「跳ねる踊り」ではなかったか。「ねぷた」を見たことの無い、「ねぷた」に愛着の無い服部長門守が、田舎染みて、面白くないと言うこととは、これしか無いのです。何故、この時代、開けていた弘前を中心とした地域の「ねぷた」に「跳ねる踊り」が抜けてしまったのか。これが理由です。もう一つ、この「津軽の大灯篭」を何故、誰に、披露したのかを解明することにより、「ねぷた」「ねぶた」の台に「牡丹花」が描かれる伝統の意味を説明できるのです。
 披露した相手は、近衛家当主、近衛信尹(信輔のち信尹)です。秀吉も為信も居なかった京に、居て、津軽家にとって、関係の深い人は、彼しかいません。津軽為信が南部家から切り取った津軽は、古来から、具体的にいうと文室綿麿軍であった人々が住み着いてから、親朝廷の気風の強い土地柄でした。南北朝時代以降でしたら、南朝とか宮方とか分かり易い言葉がありますが、南北朝以前からですので、親朝廷という言葉にします。南部家は安東家を追った後、津軽郡代に浪岡政信を任じています。浪岡家は南朝の国司北畠顕家の末葉で、津軽を治めさせるには適任だったのです。この浪岡家を滅ぼしてしまった津軽為信は一時求心力を失い、津軽の民を治めるには何が必要かを思い知ります。そして、為信は、貴族の最高峰、近衛家に接近するのです。「ねぷた」は坂上田村麿由縁という伝説は、明治の時代に、御国自慢として、発生したのではなく、この頃には、既に、あったということです。近衛家は藤原北家の本流であり、北家隆盛の緒となった「薬子の変」で活躍したのが、坂上田村麿。坂上田村麿由縁の「ねぷた」を披露することは、近衛家に対し、「よいっしょ」になるのです。
 この「津軽の大灯篭」の経緯を順を追ってお話しましょう。
 近衛信尹は家格を保つために、関白に準じる内覧を望みますが、秀吉に拒まれます。信尹は文禄の役で渡海して手柄を立てれば叶えられるのかと、文禄元年12月、肥前名護屋に下向するのです。しかし、秀吉は会うことを許さなかったのです。荒れた信尹は、訪れた津軽為信に牡丹の家紋を下賜します。「津軽一統誌」では、舞台が京になっていますが、この時のことを、次のように記述しています。

  此時近衛御所へも参上在しければ、近年世上物騒にして本末の訪問及び中絶の処、
  今度の上洛御気色一入不浅数日彼御所に抑留在し、互の積欝を散せらる。従来同支
  と雖貴賎尊卑不同を以て、長者の御紋牡丹の丸をば当家遠慮在しける処、向後可相
  用旨混(ひたすら)の仰によりて、其時より桔梗の紋を今の牡丹の丸に改め給ふ。

 信尹は、秀吉に会えないまま、秀吉の手配によって、勅命の形で京へ戻ることになります。
 京へ着いたのは文禄2年3月でした。津軽為信は信尹が秀吉に会わずに帰ったことを知り、前田利家に、しつこく理由を聞いたことが、南部信直書状≪八戸二郎宛、5月27日付(文禄2年とされる)≫から窺い知ることができます。無念の近衛様の心情を御慰めしようと、近衛家の英雄、坂上田村麿由縁である「ねぷた」を披露するよう、京にいる服部長門守に手紙を送るのです。そして、秀吉の機嫌を損ねることを恐れて、やんごとない近衛様の御言葉、下賜された牡丹の御紋の話を聞き流したりはしないということを伝えるために「ねぷた」の台に牡丹の家紋を付けることを命じます。
 為信の命を受けた服部長門守は、「ねぷた」を見たことがないので、津軽出身の侍に「ねぷた」をやってみるようにいいます。侍達は京でも流行るかもしれないと盛り上がりながら「跳ねる踊り」をします。しかし、長門守は京の人々をビックリさせることが目的でないので、京で大きいには違いないが珍しいわけでもない四間四方の灯篭を仕立て京風に「ねぷた」を披露します。そして、家紋は、御家大事、加えて近衛家に類が及ぶことが有り得るので「牡丹花」にするのです。隆盛の証であろうか、牡丹花が丸をはみ出してしまったという言い訳を考えて。(2010/05/12)