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20. 眠り流しは間違い

 「眠り流し」説は、誤りである
 「ねぶた」、「ねぷた」という祭りを、「眠り」を戒め、流した習俗という説を唱えたのは、著名な民俗学者、柳田国男である。信奉者も多い学者であるから、そういう説があったら、他の説は、消え去る筈である。しかし、「ねぶた」「ねぷた」伝承地の人々には、違和感を覚える説なのである。「ねぶた」を徹夜でしたことはないし、「眠り」を戒めた信仰といえば、江戸時代に全国的に流行した、庚申信仰があるが、津軽の地では、「ねぶた」と、それを混同したり、融合したことは無いのである。
 庚申信仰は、道教の「三尸(さんし)説」によっている。「三尸」は人間の体に皆いるもので、庚申の日にだけ、人間の体を抜け出し、天帝に、その人間の罪科を報告に行くのである。天帝は、それによって、寿命を決めるのだという。長生きしたい人達は、三尸の上天を防ぐために、その日は、精進して、寝ずに夜を明かすのである。村々で講を作り、酒食を共にしたりもしたのである。「眠り」を戒めたといっても修験者のような修行をしたのではなく、つまらない長い話をされそうなとき、「その話の続きは庚申の日に聞きましょう。」というのが常套句になったように、夜を明かして、おしゃべりを楽しんだのである。夜を明かすのであるから、空茶では、話も弾まず、酒食もしたのである。60日に一遍来るのであるから、盂蘭盆や忌み流しの習俗とも溶融しても不思議はない。柳田国男の「眠り流し考」に紹介されている各地の習俗も、「忌み流し」と「庚申信仰」が混ざり合った例と考えられなくもない。酒食を共にしたという話からは、庚申講と共通の要素がある。庚申信仰では、60年に一度来る庚申の年は凶作の年と言われ、盛大な祭りが行われ、供養のために、庚申塔や庚申塚が建てられたのである。庚申信仰が流行したのは、江戸時代であり、全国的であったことは、各地方の「庚申塚」に年号を刻むものも多く、また、「庚申塚」とか「庚申」とかの地名に残っていることから解る。津軽にも全国の例に違わず、庚申塚が多く残っている。しかし、「ねぶた」、「ねぷた」と溶融することはなかった。「ねぶた」、「ねぷた」に庚申信仰の要素は少しも無いのである。
 眠りを戒める習俗を柳田国男は日本固有のものとした。「災いのもとは、眠りにある」と、昔の人は考えていたというわけである。柳田説以前は中国伝来説が有力で教養として伝えられていた。しかし、柳田説が出てからは、日本固有説が支配的になった。この固有説に、また、道教影響説にも中国との比較がなされていないことに疑問を抱いた学者がいる。道教に詳しい、窪 徳忠(1913~2010)である。窪 徳忠の研究により、前述の三尸説のように道教の影響が明らかになっている。窪 徳忠の著書「庚申信仰」(山川出版社発行)に庚申待の実例として「青森県小泊村折戸」と「弘前市富田町」が挙げられているが、「ねぷた」と混同している様子は微塵もない。
 柳田国男の「ネブタ流し」と「眠り流し考」には、他にも二つの誤りがある。一つは、合歓の木を流したことを、その言葉が似ていることで、眠りを流した習俗としたことである。
 合歓の木を流したのは、「眠り」を流したのではない。流した物を列挙すると、野生の藤豆という葛、合歓の木、豆の葉と、いずれもマメ科の植物である。豆だけ葉とことわるのは、いずれも食料にしないものの意か。同じマメ科であっても、それぞれ、葉も花も似ていないのであるから、合歓の木の替わりに他を使うことはない。豆を作る霊力を持つものを流すのは、痘瘡の病魔を流し去る願いであった。痘瘡は体中に水泡(まめ)ができ、水泡が瘡蓋になって治っていくもので、その瘡蓋の痕が、「あばた」である。「あばたもえくぼ」が死語になるほど、罹る人が少なくなった。痘瘡は、奈良時代に大陸から伝播し、種痘が普及する江戸時代末期まで、時々、全国的に流行し、多くの死者を出した、最も怖い流行病であった。庚申信仰は江戸時代から全国(窪 徳忠によると北海道には無いらしい)に流行し、そして痘瘡の病魔流しも奈良時代から、全国的に広まったものである。二つが融合する機会は、同じように全国的にあったと考えられる。江戸時代の商人の往来や参勤交代などで習俗が普遍的になったものを取り上げて、日本の原風景としても、それは、江戸時代以後の風景である。しかし、「ねぶた」には、戦国時代に京で流行した「風流(ふりゅう)」の影響があることを忘れてはいけない。「ねぶた」が江戸時代に始まったとしたら、「無い」ものが影響を受けたという奇妙なことになる。さらに、「ねぷた」はアイヌ語であるから、さらに、遡って考えなければならない。
 柳田国男は「ねぶた」を他に似てないほどと言い、その特異性は中央のものを辺境ゆえに真似しそこなったもの、奇を衒(てら)ったものと解釈している。しかし、奈良時代、平安時代の昔から、特に室町時代には商業が発達し、戦に敗れた武士は新しい主君を求めて旅に出るなど、東北の北端まで、人の流れは多くなっている。そして、文化、習俗は普遍化の方に向かっていくのである。「ねぶた」の特異性は、普遍化する流れのなかで、残ったもので、あるいは、先人が残したかったものである。その先人の声に耳を傾けることこそ大切である。京や江戸の流行に憧れ、影響を受けながら、何を残して、何を捨てていったか、何を守ったか、親が子に何を伝えたかったかが、人の営みの歴史だからである。
 誤りのもう一つは、そのアイヌ語説を否定したことである。柳田国男の「眠り流し考」には、『ところが一方にネブタは蕃語ならんといふ説があって、是が亦近頃まで続いて居た。』とあり、アイヌ語を蕃語という言葉から柳田的な意図を感じる。意図するものとは、当時、偏狭な民族主義的な考えがあって、和人民族の優位性の示す研究が進められる風潮があった。アイヌ文化のなかに和人の文化が残っていることなどで、文化は高い所から低い所に伝わるという訳である。逆に現代の文化にアイヌ文化が残っていることの研究は、金田一京助、知里真志保、山田秀三によって、東北(北海道は当然として)にアイヌ語地名の多いことが発表されている。魚や植物の名前なら、交易でも伝播しようが、地名や、ここで著すアイヌ語呼称の習俗は、かつて、アイヌと和人の混住の時代があったことを示している。
 農耕の民の優位感覚は、どこからくるのか。弥生時代にまで遡るのか。西国などの暖かい地方では、農耕は労働集約的で、参加すれば成果の約束されるものであった。その社会にあっては、漁労、狩猟に携わる人々というのは、「博打打ち」のようなもので、反社会的な人達と考えられたのではないか。現代でも、漁師は油代も出ないときがあるなど、充分「博打打ち」である。しかし、寒冷の地であった東北では、農耕も「博打」であった。珍しくもない天候不順で秋の稔がゼロになり、人々は、山へ蕨のデンプンを求め、海へ貝や魚を捕りに行ったのではないか。そういう土地で漁労、狩猟の民を蔑視する風土は生まれない。
 「ねぷた流し」とは、アイヌ語の「Nep Tann」(Whatという意)と日本語の「流し」をくっ付けたハイブリッド語(菅江真澄はアイヌ語+日本語の言葉をまぜこぜ語といっている)である。忌み言葉を「何」と言い替える言霊信仰である。異なる言語を表記するとき、様々になることを知っているであろう。「眠り流し」は、色々の当て字があった、その一つでしかない。「ねぷた」がアイヌ語であることから、「ねぷた」の初めては、アイヌが青森県域で極端なマイノリティになる以前のことでなくてはならない。そうでなければアイヌ語の呼称は付かないのである。「ねぷた」「ねぶた」と同じものを清音(この場合半濁音だが)と濁音に二通り言うのは、アイヌ語の特徴である。「ねぶた」「ねぷた」の伝承地は、擦文土器出土分布と一致している。跳ねる踊りは、日本国広しといえども、アイヌと「ねぶた」にしかない。柳田国男の「ネブタ流し」で、文政に出来た那珂氏の風俗問状答書(秋田)を引用して『七月六日の夜は麻稈を己が年の数折りて草の蔓にてからげ枕の下に敷き、七日の朝とく川へ流すを眠(ねむり)流(なが)しと云う。燈籠の踊をもかく云う。』とある。この踊りとは、跳ねる踊りのことである。跳ねる踊りは、心臓の強さ比べで、擬似決闘である。「何!」「何!(やるってか)」と言い合い始めるから、「ねぷた」である。跳ねる踊りは、アイヌでも地域によって、名称が異なり、それを訳した、日本語も色々になっているが、ここでは「踊り競べ(おどりくら)」を採ることとする。この「踊り競べ」は争い事を殺し合いでなく、スポーツで解決したもので「平和の踊り」である。好戦的では無いアイヌ民族ならではと思わせる習俗である。アイヌ語の呼称を持つ習俗やハイブリッド語が残っていることから、「ねぶた」「ねぷた」の由来は、アイヌと和人が良好な関係で混住した時代まで遡らなければ、辿りつかないのである。
 「ねぶた」「ねぷた」がアイヌ語であろう確信のことがある。「ねぶた」の論議のもととなっている文献のことである。それは、菅江真澄の「遊覧記」や比良野貞彦の「奥民図彙」にある「ネブタ流し」の唱え言葉「豆の葉は留まれ」である。菅江真澄は三河出身の旅人であり、比良野貞彦は江戸詰め藩士で初めて、津軽に来て、珍しかったので、「ねぶた」のことを書いたのである。共に、津軽弁は不得手であった。二人には、そう聞こえたということであって「留まれ」ではないのである。ここに、田澤 正氏著の「史料にみる『ねふた』」((有)北方新社刊)の一部を引用する。
 ○ネプタ流れろ。マメの葉でトッツパレ。
 右は五十年ぐらい前まで、筆者らも子どものころ、たしかにこのように唱えた「ネプタの囃し文句」である。この後の文句を「豆の葉に止まれ」「豆の葉は止まれ」など、とにかく「とまれ」の意味に解している。全国各地のものみな同じ。さすれば津軽の「トッツパレ」はあきらかに「とまれ」の訛りだとみる外ない。筆者もそうみたいのだが少々気にかかることがある。それは、まずこの囃文句全体の意味だが、「この眠ったさ(眠気・睡魔)は流れ去ってしまえ。そうして、豆の葉はとどまれ……」だとすると、なぜ、豆の葉はとどまれ……か、どうも合点がいかない。「豆の葉」はおそらく「合歓木・ネムノキ」の葉であろう。また、津軽のムガシコ(昔噺し)をカダル(語る)のに、その終りをかならず「トッツパレ」という。これで「おしまい」「おわり」という意味である。「おわる」は「なくなる」こと。この野道はここでとまった、といえば、そこで道がと切れた、なくなった、という意味。古典語にも「とまる・とまり」は消えてなくなる、という意味のものが多い。「とづ・閉づ・閉ぢる・閉じる」は「とまる」と同義語であるが「おわる」の意味の場合も少なしとしない。また、津軽方言で、山道などが次第に細くたよりなくなっている処へさしかかると、「かェどこァとッつぱてしまた」という。田植えの植えハカや、畑のウネなどが細くなったところ、あるいは畦の都合で、ハカやウネが三角形に尖ってなくなるのを「とッつぱッた」という。その他……。(以下略)
 柳田国男の「眠り流し」を無視できなかったことは、さておき、重要なのは、「留まれ」とは言ってなかったということである。菅江真澄の「遊覧記」に出てくるのは、大畑の「ねぶた」であるから、南部弁にも触れなければならないが、津軽訛りと南部訛りの差はあっても、文字にすれば同じほど、ほぼ、津軽弁と似ているから問題にしなくてもいいだろう。菅江真澄は低い目線で、観察に徹しているが、比良野貞彦や柳田国男そして田澤 正氏は、苦労しながら、解釈を試みている。いずれも、納得させるものになってはいない。
 結論を言えば、「とどまれ」はアイヌ語だったものを、アイヌ語を話す人が居なくなって、なお長い年月で変化したものと考えられるのである。そう確信するのは、「奥民図彙」の「いやいやいやよ」という謎の唱え文句である。アイヌ語のYayeyamnoヤイェヤㇺノは、人を送るときに、「気を付けて」とか「お大事に」という言葉である。「y」音は「i」音に近い。これだけでは、似た言葉をアイヌ語から見つけただけであるが、同じ意味で、Yayituparenoヤイトゥパレノとも言うと「アイヌ語沙流方言辞典 田村 すず子著」は教えている。このような偶然が、確率的にゼロではないという数学的議論を相手にしない。流した「忌みもの」が、だんだん遠く小さくなって行くのを見て「バイバイ」と言った北国の民の純朴を紹介するだけで充分であろう。
 「ねぷた」「ねぶた」は、寺院、神社が音頭をとるものではない。
 祭りが地域の連帯を求めるものという観点からすれば、擦文土器出土分布図の奇妙な形の地域に、何かしら、民衆が連帯感を生じることが起きたのである。それは、鎌倉幕府によって、強い支配をうけたことといってよい。この民衆主催という要素は変遷にも影響を及ぼしている。誰もが憧れる「京」の「風流」や「江戸」の天下祭りと言われた「神田明神祭」や「山王祭」の影響を受けても、意見の分かれそうな近隣の影響は受けないということである。「神田明神祭」や「山王祭」の影響とは、平尾魯仙(1808~80)の津軽風俗絵巻(ねぶた之図)の様子が似ていることである。「天下祭」も現在では、神輿練りが中心になったが、江戸時代は勿論、明治、大正時代の時々には、「花出し」という人形山車その他の練り物の行列が、巡幸する神輿に供奉していた。無くなったのは関東大震災以後である。
 関連して、他の誤説も触れておこう。坂上田村麻呂が征夷の時…云々も誤りである。江戸時代以前から坂上田村麻呂由縁という伝説はあった。あったが、意味が違う。ねぶた伝承地は、前述のように、鎌倉幕府時代になって、初めて強い支配を受けた地域で、武家政権に対する反骨の祭りが「ねぶた」なのである。武家政権に対する反骨には、皇統とか、天皇とかを持ち出すのは、常套である。天下人征夷大将軍であっても天皇の家来なのである。御三家でありながら、最後の将軍、慶喜まで、将軍を出せなかった水戸藩に「水戸学」は生まれ育ったし、山鹿素行が「中朝事実」を著したのも、幕府によって赤穂に配流された時期である。「ねぶた」伝承地では、天皇ではなく、節刀を持った坂上田村麻呂なのである。「ねぶたの民」が「坂上田村麻呂由縁」と言われても、ピンとこないというのも時代の方が変わったのである。今も昔も「ねぶたの民」の気質は、「からきじ〈空意気地〉(淡谷のり子のような負けない気質)」や「じょっぱり〈強情張り〉(反骨精神)」である。明治時代は維新を強調するあまり、極端に振れるようなところがあった。富国強兵という風潮のなかで、御国自慢の物語を作り上げるのは、世相の流行でもあった。今では、「ねぶた」祭りの最高栄誉「田村麻呂賞」が「ねぶた大賞」に変えられた。歴史を尊重すれば、残念なことだが、明治時代に作られた誤解を避けるには、致し方ないことかも知れない。思えば、私が「ねぶたの由来」を調べることになったのも、これであった。アイヌの人が「ねぶたに石をぶつけてやりたい」と公言していた。蝦夷イコールアイヌ説があった昔、祖父母、父母が蝦夷征伐と言って苛めを受けた悲しい話があったのである。赤ん坊の時から親しんできた「ねぶた」に、本当に、心傷つく物語があるのだろうか。その疑問を解き明かさずにはおけなかった。アイヌのことも少しは勉強させてもらった。研究成果は「石を投げるに及ばず」であった。
 弘前の「ねぷた」が出陣で、青森の「ねぶた」が凱旋というのも感じたままであろうが、田村麻呂の征夷の出陣なら、これも間違い。弘前の「ねぷた」は、喧嘩への出陣の名残なのである。青森でも五所川原でも喧嘩はしたが、本家は何といっても弘前城下町であった。男は「ねぷた」の次の日には、生傷やコブの一つも作ってないと、「ねぷたにも出ね、じく無し(意気地なし)」と軽蔑されたのである。だから、出陣のような緊張感は、大怪我や死ぬかも知れないという思いを伝統として残しているのである。
 誤説は、まだまだある。「津軽遍覧日記」にある津軽の大灯篭の話からだと思うが、豊臣秀吉に「ねぶた」を披露したというのも、文禄2年の7月には、秀吉は「文禄の役」で肥前名護屋におり、ありえない。関係者で京に居たのは、近衛信尹、その父、前久、そして、津軽藩の家来で、京で留守を与かった、服部長門守康成である。「ねぶた」が坂上田村麻呂由縁である言い伝えから、近衛家父子に披露したと考えるのが、当たっている。藤原北家の本流である近衛家にとって、「薬子の変」で活躍した坂上田村麻呂は英雄なのである。文禄2年、近衛家当主、近衛信尹は近衛家の復権を願い、肥前名護屋の秀吉に会おうとしたが、勅命の形で帰され失意にあったのである。秀吉の許しなく、津軽家に家紋を下賜した逸話が「ねぷた」「ねぶた」の台に牡丹の絵が描かれる伝統に残っている。牡丹の絵は、秀吉に配慮した津軽家家紋津軽牡丹なのである。牡丹の替わりに描かれるものが、津軽家の家紋津軽牡丹そのものや、卍(これも津軽家の家紋)であることから、確信できる。
 服部長門守が「関ヶ原の戦い」の後、津軽家に召し抱えられたれたというのも、西軍、東軍両方に兵を出した津軽家の事情によるもの。徳川幕府の時代では、そう言うことにしたまでである。関ヶ原の戦いでは、どちらが勝っても存続できるよう、親兄弟が東西に分かれて戦う大名が多かった。徳川家康も大大名はともかく、小さな藩は「風になびく草のようなもの」と言って、笑って許したという。
 「ねぶた」が人形ねぶたであることから、形代とした藁人形が原形とするのも間違い。前述の「風流(ふりゅう)」を描いた絵画で現存するものは少ないが、「祭礼草子」(重要文化財 財団法人前田育徳会蔵)の「風流(ふりゅう)」には、背景があって、舞台仕立てである。中央に、馬上の人などが据えられている。一人持ちであり、これに、灯篭の要素が加わり、大きくすれば、現代の人形ねぶたに「そっくり」である。影響ならば、これであろう。「言継卿記」の「風流」の記述には、「灯篭」も「人形」も出てくる。「灯篭」と「人形」をミックスしたのは、「ねぶた」の民の器用さか。どうせ流すものであったら、かくも凝ったものを作りはしない。人形で表現したい物語がある。歌舞伎と題材が似ているといっても、民衆受けするものという共通項があるからに過ぎない。反骨と判官びいきの民衆の心は今も昔も変わらない。観衆の賞賛が欲しいのが「風流」の要素である。
 結論をむりやり、言えば、「ねぷた」「ねぶた」は、かなり、昔から行われてきたこと。変遷もシーケンシャルに変わったのではなく、古い形と新しい形とが、揺れをもって、変わっていったということ。ビデオのない時代に復古的なことができたのは、「ねぶた」は、村々で、それぞれ行われ、田舎には古いものが残ることがあり、昔の方が良かったと思えば、昔に戻せたということ。変遷は様々に青森県域の歴史を、また、日本の歴史を残しているということである。