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4. ラッセラー、ラッセラー

 今までの「ねぷた」由来研究者は、青森市他各地の「ラッセラー、ラッセラー、ラッセラッセラッセラー」という「ねぶたの囃子言葉」を、よく分からない意味不明の言葉としたり、乱暴にも無視したりしてきました。
 一般的に、囃子言葉は、動詞の命令形や感動詞が多いように思います。「ラッセ」は、その命令形らしい。そして、「ラッセラー」は、掛け声「ヤー」が付いた「ラッセ+ヤー」であろうと思われます・そして、二つの言葉が考えられます・一つは「拉っせ」の意味であると考えられるのです。漢語に「す」という動詞を付けて造語することは、我国に漢字が伝えられて、まもなく、6、7世紀から、行われていました。日本に漢字の読み方が伝わるのは僧侶による読誦音としてでしたので、宗派の伝わった時代によって、呉音、漢音があり、漢音の時にほぼ全ての漢字が伝わったとされています。ただ、私達が現代で使っている漢和辞典は、明治時代に中国の韻書をもとに作られたのが母体で、帰納的手法によっていないので、確かなことはいえませんが、「拉」の読み、「ラ、ラッ」は呉音でも漢音でもなく、慣用音とされています。また、「ラッ」のッはPに終わる入声(にっしょう)を表した、訛りとされていますので、入声の残っていた隋の時代以前に伝わった読み方であることは確かです。「ラ、ラッ」の読みは、呉音よりも古い古音であると言えるのです。
 意味は、両手で引っ張ることから、捕らえることです。手で捕まえるのですから、無抵抗に近い対象でなければなりません。使う機会が限定される言葉です。
 また、もう一つは「羅す」という言葉です。「ラッセ」と促音が入るのは、真白を「まっしろ」というように強調の意と考えるのです。この場合、訓読みして「あみす」とも読め、網で捕らえるの意味になります。用例として、次があります。
 「続日本紀」巻第20の「橘奈良麻呂の変」天平宝字元年(757)の記述で、罪に服して死んだ者の魂にことよせて、不穏なことを言いふらすことを禁じた勅です(孝謙天皇)。


 勅して曰はく、「此者、頑(かたくな)なる奴、潜(ひそか)に反逆(みかどかたぶ)けむことを図る。皇天遠からず、羅して誅に伏はしむ。
     (漢文のところ、読み下しにて、ご容赦)


 この「羅して誅に伏はしむ。」にある「羅」が「拉」の替え字であるか、網で捕まえる意味かは決め付けられませんが、どちらにしても、捕まえるという意味なのです。
 「大化の改新」で大和朝廷は、唐のような中央集権国家を理想とし、中国の文化、思想を取り入れることに努力しました。中国の思想から「皇帝は、徳のある人がなるべき」というのがあって、代々の天皇は徳を以って治世しようとします。征夷の記述にも「徳によって、従わせるように」という勅が度々出てまいります。懐柔によって、征夷を進めた、坂上田村麻呂も国策に則っていたとも言えるのです。
 延暦19年(800)3月の記述で、出雲の国に、新しく俘囚60余人が送られ、農業に不慣れだった様子や俘囚といっても、奴隷的な扱いを受けていた訳ではなかったことが分かります。
 このように、懐柔政策に従わなかった人は、どうしたかと言うと、他国へ強制移住したのです。都や各地で、罪を犯したものが、懲罰的に、また、国策によって関東や各地から、陸奥の国へ移住させられたのと、裏返しに、陸奥の国からも現地に置いて好ましからざる者は、全国へ強制移住したのです。全国とは、関東から九州まで散らばっています。受け入れる方は迷惑だったからでしょう。集中して暴徒になることを恐れたのかも知れません。
 この時に、全国に、陸奥、出羽の国の習俗「ネプ流し」が伝えられたのかも知れません。
 征夷による捕虜の多くを移住させたのは、坂上田村麻呂です。彼以前にも、文室綿麻呂の時代にもありましたが、ピークは、彼の時代とされています。
 延暦19年(800)11月、坂上田村麻呂は移住させた夷俘を検校するため、諸国を回っています。自分が移住させた人達を心配して、訪ね歩いたとして、心優しい田村麻呂のエピソードとして語られます。いじわるな見方をすれば、問題を起こすので、苦情処理に回ったとも言えますが、まあ、徒に彼の偉業を卑しめるのは、よしましょう。「勝手に、御処分を」と言わないだけでも充分、優しいのですから。
 そこで、囃子言葉の話しに戻しますが、「拉っせ」または「羅っせ」は、つまり、殺すな、捕らえろ、連れて行け、という言葉です。これは、最も坂上田村麻呂や文室綿麻呂らしい戦い方と言えるのです。
 もし、「ねぶた」が後世、特に、武士が台頭した以降の時代の創作なら、「拉っせ」や「羅せ」の「捕らえろ」などではなく、「殺せ」とか、それに近い言葉になった筈なのです。事実、「ねぶた」に関わる伝説は、武家社会の影響を受け、坂上田村麻呂が「蝦夷(えみし)を征伐したとか、殺したという話しになっています。
 「ラッセ」という言葉が、ただ、伝統として、言い伝えられました。意味の詮索がされなかったからこそ、武士が台頭し、その後の長い武家政権の影響も受けずに、まるで、未盗掘の墓陵のように、私達の前に時代を甦らせ、「ねぶたは、坂上田村麻呂軍だった人達の伝承劇である」と確信を持たせるのです。(2010/05/15)