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7. ねぶた伝承地は毛外の地

 「ねぶた」の由来は、平安時代の初期、つまり、文室綿麿の征夷にまで、遡りますから、青森県の歴史を語ることになるくらい、長い話になります。ご容赦。
 青森県の津軽地方は、亀ヶ岡遺跡に、芸術的とも言える「亀ヶ岡式土器」を出土し、また、大規模な「三内丸山遺跡」が知られるように、縄文時代には、かなり、豊かな文化があったようです。
 この津軽地方に突如として人口が増える時期が来ます。9世紀前葉までの遺跡数に比べ、9世紀中葉から10世紀前葉までのものとみられる遺跡が、急激に増加するのです。
 集落の増える地域は、青森平野、岩木川中流域、浅瀬石川、平川流域に集中し、後に栄える岩木川下流域や日本海沿岸部が少ないのは、移り住んだ人々が青森平野部から進入して来たことを裏付けています。これらの移り住んだ人々の集落の形態は、他の地域や時代には無い、珍しい特徴を有しています。他の地域や、これ以前の津軽には、村長の住居らしきものを中心に、村人の住居や工房、倉庫がとりまく構造が多いのに比べ、住居を横一列、二列に配置されるなど、村長が特別扱いされない集落が多いのです。これは、新しい土地に移り住んだときは、特別な首領に従ったのではなく、とりあえず、平等であったことを表しています。
 この移り住んだ人々とは、もちろん、最後の征夷の後、「日本後紀」の弘仁2年10月の条にあった「俘囚は、便宜を思慮して、当土に安置せん」と表現された、陸奥国、出羽国各地から集められた文室綿麿軍の兵達と考えられるのです。
 兵は、兵を辞めたら、生業に戻ることになります。移り住んだ人々が、元、兵であったことを裏付けるのが、生業の多様さです。一部族、一地域が、移り住んだのでない根拠でもあります。
 生業の一つは、岩木川中流域で、農耕の村落が急増し、米を始めとして、稗、小麦、大麦、大豆を生産しています。
 二つ目は、須恵器という1000度C以上の高温で焼成された土器が五所ヶ原で製造されています。その時期は9世紀末葉から10世紀前葉とみられます。この須恵器は残念ながら寒冷地では人気が出ず、10世紀末葉には、製造中止になったようです。
 三つ目は、岩木山北西麓を中心に、鉄が生産されています。多くの地点で鉄滓(てつさい、スラグ)が確認され、半地下式小型竪形炉などの鉄生産遺構群が発見されています。
 また、四つ目は、青森市域を中心とした陸奥湾沿岸に、製塩コンビナートとともいえるような濃い密度で、製塩設備の遺跡が発見されています。製法は、江戸時代まで残っていたもので、土器に海水を注ぎ、火によって水分を蒸発させることを繰り返し、塩の結晶を得るものです。この大量の塩の供給先には、馬の生産地もあったと思われますが、何処かは、特定されていません。塩を必要とする理由は、米や雑穀を主食とする人々が移入して来たことを現すのかも知れません。
 文室綿麿が最後の征夷(811年)をして、律令制度に組み入れられた地と、それを嫌って、津軽、下北地方の毛外の地に、兵達は、別れました。文献に出現するのは、「陸奥話記」で、前九年の役(1051年)になります。240年を経て、律令制度の地は拡大していました。
 朝廷に叛いた安倍頼時を死に至らしめた安倍富忠の勢力は、鉋屋(かんなや)、仁土呂志(にとろし)、宇曽利(うそり)といいます。地名をアイヌ語で解釈すると、kanna-yaは上の岸地、この場合、上とは、東で、東は上座でもあります。ni-to-ror-sirは、木と湖沼の上(これも東)の地、u-sirは互いの地ということになります。
 鉋屋の「鉋」は、「陸奥話記」の底本、伝承本のよっては、他の字になっているものがありますが、菅江真澄が、その著作、「牧の冬枯」の中で、陸奥話記に触れ、「かんなや」と読んでいることと、kannaは、アイヌ語で、「上の」という意味の言葉があり、考えられる地域と符合することから、これを採っています。仁土呂志は下北半島の南部にある小川原湖(おがわらこ)、田面木沼(たもぎぬま)、鷹架沼(たかほこぬま)、尾駮沼(おぶちぬま)など湖沼が多い地域で良いと考えられます。しかし、rorという東の意味が含まれることで、西は?という疑問が生じます。宇曽利は、下北半島の北端に宇曽利山湖があることから、半島北部と考えられるむきもありました。しかし、ここは、明治の世になって、斗南藩が開墾に苦心し失敗したといってよい地域です。律令制度の下での農耕の地域とは考え難いのです。uは「互いの」という意味で、同質のものに用いられます。uには、半島の意味はありませんが、ジョン・バチラー著「アイヌ・英・和辞典」に、
 Ush,ウシ、湾.n.A bay.
 とあることから、湾の奥か入口から見て、右の地と左の地が互いの地と考えられるのです。下北半島と夏泊半島に囲まれた沿岸は、三角形となっており、何処からも、互いの地が見え、他の地点から見れば、自分の立つ位置も互いの地となっています。津軽半島の陸奥湾沿岸が外ヶ浜と呼ばれて、現在は半島の北端、三厩の外ヶ浜町に名前が残るように、かつては、下北半島と夏泊半島に囲まれた沿岸が宇曽利と呼ばれ、北端に、その名前が残ったのではないか。気になる仁土呂志の西、野辺地湾岸地域が宇曽利と呼ばれた地域の一部で、安倍富忠の勢力範囲でなかったか。この根拠を、もう、一つ加えるなら、青森県内の擦文土器出土の分布です。七世紀前葉から12、13世紀前葉まで北海道を中心に広まった擦文文化ですが、青森県にも10世紀中葉以降南下してまいります。しかし、擦文土器の出土点数は、少なく、交易のためか、青森の方が住み良いとした少数の人々が北海道から移り住んだようです。それでも、指標としては充分で、律令制度は土地が基本、擦文人の移住を拒んでいるため、毛外の地が浮き上がります。これは、「ねぶた」の伝承地と重なります。安倍富忠の勢力が培われる同じ時間を経て、毛外の地も豊かになった筈で、この頃までに、先祖の成り立ちを伝承しようという気運が起こったと考えられます。これらを、図で示すと、つぎのようになります。

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triangle.jpg(746 byte) 八甲田山 dot.jpg(708 byte) 擦文土器出土地
red.jpg(644 byte) 「ねぶた」伝承地 blue.jpg(643 byte) 宇曽利
purple.jpg(643 byte) 宇曽利かつ「ねぶた」伝承地 green.jpg(644 byte) 仁土呂志
yellow.jpg(644 byte) 鉋屋


 ここで、津軽や下北に移り住んだ人々が、文室綿麿軍元兵士ではなく、「元慶の乱(がんぎょうのらん、878)」の際、苛政に耐えかねて逃げた出羽の民ではないかという考えがあります。しかし、彼等は津軽にも渡っているでしょうが、北海道が主で、擦文文化に連なる人々でないかと思われるのです。
 元慶の乱は、その前段として、2年3ヶ月ほど前に、同じ地域で、事件が起きています。渡島の荒狄によって、秋田城や周辺の民家が焼き討ちをうけ、農民21人が殺されたのです。秋田城近辺の農民なら体制側の民でしょうが、何らかの遺恨があったのか。

 貞観17年(875)11月  ○十六日乙未。出羽国言。渡嶋荒狄反叛。水軍八十艘。殺略秋田飽海両郡百姓廿一人。

 この後、元慶の乱が起きます。秋田城と官舎や周辺の民家が焼き討ちをかけられるのです。

 元慶2年(878)3月  ○廿九日乙丑晦。出羽国守正五位下藤原朝臣興世飛驛上奏。夷俘叛乱。今月十五日焼損秋田城并郡院屋舎城邊民家。仍且以鎭兵防守。且徴発諸郡軍。
 苦戦が続く状況に、時の摂政藤原基経は、藤原保則(藤原南家)を出羽権守に任じます。
 元慶3年(879)正月11日、渡島の夷の首領103人が、同類3千人を率い、津軽の俘囚百人と共に秋田城にやってきます。藤原保則は、配下に命じて、これを饗給し、懐柔して収拾を図ります。

 元慶3年正月11日  ○略○又渡嶋夷首百人。率種類三千人。詣秋田城。与津軽俘囚不連賊者百余人。

 藤原保則は、元慶3年3月に乱が終結したことを報告します。かなりの長文です。その中で、乱は、秋田城司良岑近著(よしみねのちかなり)の苛政によるもので、10余条の訴えを、もっともなものと認めます。

 元慶3年3月辛夘朔。二日壬辰。○略○賊徒進愁状十餘條。陳怨叛之由。詞旨深切。甚有理致。

 そして、謎を提起しているのが、出羽の民は、3分の1が奥地へ逃げたという次ぎの一文です。

 ○略○国内黎民。苦来苛政。三分之一。逃入奥地。所遺之民。承数年之弊。

 一斉に三分の一では無く、序々にでしょうが、奥地とは何処でしょう。経緯から渡嶋つまり北海道と考えられ、擦文文化を担った人々と思われます。
 前述ように、渡嶋は三千人に対し、津軽は百人であり、渡嶋は夷といい、津軽は俘囚と区別していること、賊に連ならずという記述から、逃げたのは津軽ではないことになります。(2010/05/15)